東海道(とうかいどう)
(1)古代の七道の一つ。伊勢湾沿岸から現在の中部・関東両地方の太平洋岸にそった地域で,伊賀・伊勢・志摩・尾張・三河・遠江・駿河・伊豆・甲斐・相模・武蔵(771年に東山道から移管)・安房・上総・下総・常陸の各国が所属する行政区分であった。地方官として732~734年(天平4~6)に東海東山二道節度使,746年に東海道鎮撫使,761~764年(天平宝字5~8)に東海道節度使を設置した。(2)これらの諸国を結ぶ交通路も東海道と称し,「海の道」ともよばれた。畿内から各国府を順に結ぶ陸路を基本に官道が整備され,当初は相模国から上総国へは海路で渡った。駅路としては中路で各駅に10頭の駅馬がおかれる原則であり,「延喜式」では総計55駅に465頭の駅馬をおく規定であった。源頼朝による東国政権がうまれると,1194年(建久5)には大宿8人,小宿2人の人夫がおかれ,最も重要な街道となった。1601年(慶長6)徳川家康は改めて宿を設定して伝馬の常備を命じた。五街道の一つ。宿駅は品川から大津まで,江戸―京都間の126里余に53宿あり,東海道五十三次(継)といわれた。また大津からわかれて伏見・淀・枚方(ひらかた)・守口の4宿をへて大坂に至る京街道も含めた137里余という見方もある。道中の箱根・新居には関所が設置され,大井・天竜両川や桑名七里渡など難所も多いが,参勤交代の大名や参府の公家の通行など交通量は非常に多く,文化の伝播にも重要な役割をはたした。脇道は浜松から御油(ごゆ)を結ぶ姫街道,熱田(宮)から桑名を結ぶ佐屋路(さやじ),中山道垂井(たるい)に至る美濃路などがある。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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