山脇東洋(やまわきとうよう)
生没 1705.12.18~62.8.8 江戸中期の古方派の医師。名は尚徳(たかのり),字は玄飛,東洋は号。京都生れ。実父は丹波国亀山の医師清水立安(りゅうあん)。山脇玄脩の養子となり,1726年(享保11)家督を継ぐ。法眼(ほうげん)に叙され養寿院の院号をうけた。後藤艮山(こんざん)に古医方を学ぶ。中国古典を読み,ヘスリング著の解剖書をみて五臓六腑説に疑問をいだき,人体解剖の機会をうかがっていた。54年(宝暦4)閏2月7日,官許を得て京都六角獄舎内で男刑死体の解剖(観蔵)を行った。解剖実施をめぐり賛否両論がおきたが,5年後「蔵志」を刊行し,杉田玄白らの蘭学勃興の誘因となった。荻生徂徠とその一門の思想的影響が強い。「養寿院医則」を著し,46年(延享3)に「外台(げだい)秘要方」を翻刻した。門人に栗山孝庵・永富独嘯庵がいる。墓所は京都市の真宗院と誓願寺。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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