山城の国一揆(やましろのくにいっき)
1485年(文明17)南山城でおきた国一揆。畠山義就・同政長は85年10月以来宇治川を挟み2カ月に及び対陣。戦闘に苦しんだ住民は12月,国人を中心に綴喜(つづき)・相楽(そうらく)・久世(くぜ)3郡で一揆を結成,両軍に迫って退去させ,以後合議によって掟を定め,自検断を行い,半済(はんぜい)を徴収するなど一揆の手で行政を行った。細川政元被官の三十六人衆が中核となったこと,この地域に影響力をもっていた政元の助力があったことも成功の一因とみられる。新守護伊勢貞陸の入国をめぐって一揆内部で意見がわかれたが,93年(明応2)一揆が承認,内部の反対派は貞陸の代官古市氏に撃破され入国が実現した。のちに南山城は政元の配下に入るが,三十六人衆などの山城国人の連合は,その支配下でも存続したとみられる。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
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