アフリカ探検(アフリカたんけん)
ヨーロッパのアフリカに関する知識は大航海時代以降も沿岸部周辺に限定され,内陸部については16世紀のレオ・アフリカヌスの著作『アフリカ誌』がほぼ唯一の情報源であった。18世紀に内陸部,特にナイル川,コンゴ川,ニジェール川水源・水系の謎や黄金の交易都市トンブクトゥなどが啓蒙思想の洗礼を受けたヨーロッパ人の知的好奇心を惹きつけると,各国の探検家が競って内陸部におもむいた。イギリスでは公的機関として1788年「アフリカ内陸部発見を促進する協会」(アフリカ協会)が設立され,1830年王立地理学協会に吸収された。他の国々でも地理学会や新聞社が賞金を出し後援者となった。ナイル川では1770年ブルースが青ナイル水源(タナ湖)を,1862年スピークが白ナイル水源(ヴィクトリア湖)を「発見」。ニジェール川水系は1795年および1805年にパークが探検,31年ランダー兄弟が全水系を下航した。またコンゴ川では76~77年スタンリーが全水系を下航した。トンブクトゥから1828年に初めて無事生還したカイエは凋落した町の様子を報告した。アフリカ探検はたんなる地理上の謎の解明にとどまらず,ザンベジ川,ナイル川,コンゴ川の調査に従事したリヴィングストンの例に顕著なように,暗黒大陸の開化,キリスト教布教や奴隷貿易廃絶の意志に支えられ,のちにはスタンリーとコンゴ自由国の関係にみられるようにアフリカ分割の露払い役をも果たした。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
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