ポーランド分割(ポーランドぶんかつ)
Rozbiory Polski ロシア,プロイセン,オーストリアが1772年,93年,95年にポーランドを分割し,滅亡させた事件。シュラフタ共和政が無秩序化したポーランド‐リトアニアの合同国家は,18世紀にはロシアの保護下にあった。ロシアは,オスマン帝国との戦いのために,ポーランドに多少の改革を促そうとしたが,その政策が内部からの抵抗にあい挫折したことが分割を惹起した。・〔第1次〕シュラフタが1768年に結成したバール連盟やオスマンと戦うロシアの窮状をとらえてプロイセンが仕組んだ。プロイセンはグダンスクを除く西プロイセン,ロシアはリヴォニアの一部とベラルーシの東部,オーストリアはガリツィアを獲得。・〔第2次〕ロシア‐トルコ戦争の最中,ポーランドの四年議会(1788~92年)がロシアの意に反して主権の確立と近代化への改革をめざしたため,1792年にロシアとの戦争に至り,またプロイセンがフランスとの戦いを続ける代償として分割を要求。ロシアはベラルーシの中央部とウクライナ,プロイセンは西部ポーランドを併合。オーストリアは不参加。・〔第3次〕コシチューシコ蜂起の敗北が契機となり,ポーランド国家は消滅した。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
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