ローマ教皇(ローマきょうこう)
Papa[ラテン],Pope[英] ローマ・カトリック教会の最高位の聖職者。イエス・キリストから信者の司牧を委託されたペテロがローマで殉教したことから,ローマ司教が首位権を主張した。コンスタンティノープル大司教らの存在によって,ローマの首位権は容易には確立されえなかった。レオ1世(在位440~461)がローマ教皇の裁治権を強化し,グレゴリウス1世(在位590~604)がローマ司教をして西欧キリスト教の主導者たらしめる教皇体制の基礎を置いた。教皇の呼称もこれ以後に始まる。教皇庁と緊密に提携したフランク王国が9世紀前半に瓦解し始めるとともに,教皇権も危機的様相を呈した。特に10世紀に入ると,教皇職はイタリアの地方的紛争に巻き込まれ,世俗政治に左右されて腐敗した。しかしレオ9世(在位1048~54)からインノケンティウス3世(在位1198~1216)の時期に,教皇権は未曾有の最盛時を迎えた。その前半期には,いわゆるグレゴリウス改革によって俗権と激突してこれを破り,その後半期には広範な宗教運動によって聖界の刷新を成就した。他方,しだいに台頭する国民国家と世俗思想の形成は,ボニファティウス8世の「アナーニ事件」(1303年),クレメンス5世に始まる「アヴィニョンの捕囚」(1309~77年),それに続く教会の大分裂(1378~1417年)となって現れ,教皇権は急速に失墜していった。ルネサンス教皇たちの道義的退廃は,やがてプロテスタントの宗教改革に打撃を受けたが,カトリック教会は,イエズス会による信仰指導と教育,トリエント教会会議による教義の明確化に大きな成果をあげてそれ自身を再建しえた。しかし18世紀には凡庸な教皇が続き,イエズス会すら教皇によって解散させられた。教皇職はピウス7世(在位1800~23)によって,しばらく西欧世界の潜在力の一要因となりえたものの,教皇領は失われた(1870年)。それがピウス11世による1929年のラテラノ協定でヴァチカン市国として再建されてからも,教皇座の政治力は昔日のおもかげを失った。しかし第2回ヴァチカン教会会議(1962~65年)は,教皇職の新生を示す世界史的な出来事である。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
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