第一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん)
World War ・ 大戦の原因は,ドイツ包囲網をなすイギリス,フランス,ロシアの三国協商とこれに対抗するドイツ‐オーストリア同盟の均衡が,バルカン問題を機に破綻したところにある。戦争の誘因としては,建艦競争で尖鋭化していた英独の対立,アルザス・ロレーヌやモロッコをめぐる独仏の対立,バルカン半島でのドイツ,オーストリアとロシアの角逐などさまざまな要因があげられる。直接の契機は,1914年6月28日,オーストリア皇位継承者フランツ・フェルディナント夫妻が,訪問中のボスニアの首都サライェヴォでセルビア系の青年に暗殺された事件(サライェヴォ事件)であった。7月23日,オーストリアはセルビアに最後通牒を送り,28日宣戦布告。29日これにロシアが部分動員令をもって応えるや,ドイツは8月1日ロシアに,8月3日フランスに宣戦布告。翌4日には中立国ベルギーへのドイツの侵入を理由に,イギリスがドイツに宣戦布告した。23日には日英同盟を名目に日本も参戦。ヨーロッパの反戦・反帝国主義運動は大戦勃発とともに無力化し,第2インターナショナルは崩壊した。ドイツはシュリーフェン作戦どおり西部戦線での短期決戦を追求したが,9月のマルヌの戦いで頓挫,以後戦線は膠着し,イープル,ソンム,ヴェルダンでの消耗戦,毒ガス,戦車,航空機などの新兵器の投入も事態を大きくは変えなかった。ドイツと同盟関係にあったトルコは14年10月末協商側と交戦状態に入り,戦線はメソポタミアにまで拡大した。すでに三国同盟を脱していたイタリアは協商側とのロンドン条約による領土拡大を報償条件に15年対オーストリア宣戦。ユトラント海戦で制海権を奪回できなかったドイツは無制限潜水艦作戦に訴えたが,かえって17年4月にはアメリカの対ドイツ宣戦布告を招いた。戦争の総力戦化・長期化に伴う民衆の不満の増大の結果,ロシアでは17年3月食糧事情悪化に端を発して二月革命(ロシア暦)が起こり,さらに十月革命(ロシア暦)によって権力を得たレーニンらの革命政権は,平和と民族自決を掲げて18年3月ドイツとの間でブレスト・リトフスク講和条約を締結し,ロシアは大戦から離脱した。アメリカの軍事力が加わった連合軍は各戦線で優位に立ち,18年10月トルコが降伏,オーストリアも11月3日単独休戦した。ドイツ,オーストリアに革命が起こるに及び,11月11日ドイツの休戦条約調印とともに大戦は終結した。戦死者数は900万~1000万人にのぼった。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
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