唐(とう)
Tang 618~907 中国の統一王朝。隋末の乱に突厥(とっけつ)防衛のため山西太原にいた唐国公李淵(りえん)(高祖)は,長安を占領して煬帝(ようだい)の孫の恭帝を立て,煬帝が江都(揚州)で殺されると,禅譲によって即位した。その創業を助けた次子李世民(りせいみん)(太宗)は,皇太子建成(けんせい),弟元吉(げんきつ)を殺してあとを継ぎ,628年全国を統一し,均田制,租庸調,府兵制に基礎を置く律令政治を整え,唐朝支配の基礎を固めた。また太宗とその子高宗は,突厥,鉄勒(てつろく),西域諸国,百済,高句麗などを討って領土を広めた。しかし高宗の末頃より均田制の動揺がみえ,皇后の則天武后は中小官僚,新興地主の支持で政権を奪い,一時周朝(武周)を建てた。武后死後復位した中宗の皇后韋后(いこう)も夫を殺して政権を握ろうとしたが,のちの玄宗がクーデタを起こして父の睿宗(えいそう)を位につけ,ついでみずから即位した。玄宗は均田制を立て直し,大運河によって江南の新財源を求め,辺境に節度使を置いて国力を充実し,文化史上でも詩人の李白(りはく),杜甫(とほ),絵の呉道玄,李思訓(りしくん),王維(おうい),書の顔真卿(がんしんけい)らを輩出した。しかし末年に安史の乱が起こって繁栄は終わり,節度使が内地にも置かれて民政を兼ね,しばしば反乱を起こした。また均田制の崩壊も決定的となって,塩専売や茶税,両税法がしかれた。これらの財政措置の結果,一時憲宗期の中興があり,白居易(はくきょい)の詩や韓愈(かんゆ),柳宗元の古文復興もこの頃行われたが,以後中央では宦官(かんがん)の専権や官僚の党争が続いた。地方では,農民の没落が進んで黄巣(こうそう)の乱を起こし,乱軍からいったん投降した朱全忠(しゅぜんちゅう)が昭宗,哀帝を擁し,禅譲の形式で国を奪い,後梁(こうりょう)王朝を建て,唐は20代約300年で滅んだ。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
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