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4コマで豊臣秀吉〜すぐわかる戦国武将シリーズ〜

尾張に生まれ、天下人にまで上り詰めた豊臣秀吉。日本で人気の武将ですが、海外にもその名は知られており、ちょっと違った評価があるのだとか。山川出版社の「 山川 世界史小辞典(改訂新版)」をベースに、秀吉の人生を4コマでまとめます。

4コマで豊臣秀吉

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関連用語

豊臣秀吉(とよとみひでよし):日本史小辞典

生没 1537.2.6~98.8.18 織豊期の天下を統一した武将。尾張国愛智郡中村生れ。百姓弥右衛門の子。母はなか(天瑞院)。尾張を出,松下之綱に仕えた後,織田信長に仕える。はじめ木下藤吉郎。信長入京後は京都の民政にあたり,1573年(天正元)北近江の長浜城主となる。この頃から羽柴姓を用い,77年10月からは中国攻めに従事。82年6月本能寺の変に接し毛利輝元と急ぎ和睦して,山崎の戦で明智光秀を倒す。83年4月,柴田勝家を賤ケ岳(しずがたけ)の戦で破って信長の後継者の地位を固め,大坂城を本拠とした。84年,小牧・長久手の戦をへて徳川家康を臣従させ,85年関白,翌年太政大臣となり,豊臣姓を受けた。四国・九州に続き,90年,関東・奥羽を服属させ,全国統一を完成。92年(文禄元)からは「征明」を意図して朝鮮に出兵(文禄・慶長の役)したが,朝鮮水軍の抵抗などに苦戦するなか,98年(慶長3)8月死去。秀吉は,ほぼ全国に行った太閤検地と刀狩によって兵農分離を完成させ,近世社会の基礎を築いた。また九州攻めの後,バテレン追放令を出しキリスト教の布教を禁じたが,ポルトガルとの貿易は継続したので徹底しなかった。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
用語:豊臣秀吉(とよとみひでよし):日本史小辞典

豊臣秀吉(とよとみひでよし):世界史小辞典

1537~98 日本の安土桃山時代の武将。尾張国中村の人。織田信長に仕え,頭角を現す。本能寺の変に接し,明智光秀を討ち,続いて柴田勝家を破って信長の後継者となる。1590年全国統一を果たす。92年,明の征服を目的に朝鮮に侵攻(文禄の役,壬辰(じんしん)の倭乱)。平壌(へいじょう)の役で明軍に敗れ撤退。その後の日明交渉は難航し,97年に戦闘が再開され(慶長の役,丁酉(ていゆう)の倭乱),翌年8月の秀吉の死によって終了した。日本では立身出世の人物として人気があるが,朝鮮では国土を荒廃させた侵略者である。 (山川 世界史小辞典(改訂新版), 2011年, 山川出版社)
●出典
用語:豊臣秀吉(とよとみひでよし):世界史小辞典

織田信長(おだのぶなが)

生没 1534.5.12/28~82.6.2 戦国期~織豊期の武将。父は信秀。幼名吉法師。1546年(天文15)元服。信秀没後,本家の清須(洲)(きよす)・岩倉両織田家を滅ぼし尾張を統一。60年(永禄3)桶狭間(おけはざま)の戦で今川義元を破り,67年美濃斎藤氏を降して岐阜に居城を移す。この頃から天下統一を意識して「天下布武」の印章を用いた。翌年,足利義昭とともに上洛し,義昭を将軍に擁立したが,その政治行動を牽制,ほどなく両者は不和となった。義昭に呼応する近江浅井・越前朝倉両氏をはじめ,比叡山延暦寺僧徒,甲斐武田氏,一向一揆などの包囲をうけて苦戦したが,73年(天正元)義昭を京都から追放して室町幕府を滅ぼした。75年長篠の戦で武田勝頼に大勝し,同年越前の一向一揆を鎮圧。翌年近江に安土城(現,滋賀県近江八幡市安土町)を築いて移った。80年石山本願寺を攻め降し,畿内を平定。82年春甲斐に遠征して武田氏を滅ぼし,つづいて中国・四国制圧を期して上洛中,本能寺で明智光秀の謀反にあい自害した(本能寺の変)。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
用語:織田信長(おだのぶなが)

中国攻め(ちゅうごくぜめ)

中国地方における織田信長と毛利輝元との戦。1576年(天正4)6月,石山本願寺を支援する毛利水軍と織田水軍が摂津国木津川河口で衝突したのが直接的対決の始まり。その後,77年10月羽柴(豊臣)秀吉が播磨国へ入り,翌月にはほぼ一国を平定。しかし78年に三木城の別所長治,摂津国在岡(ありおか)の荒木村重らの裏切りがあいつぎ,織田方は劣勢となる。79年,秀吉の工作によって備前の宇喜多氏が織田方に転じ形勢逆転。三木城・在岡城が落ち,秀吉は因幡へ進出,81年10月鳥取城を落として同国を平定,82年5月から備中国高松城を水攻めにする。翌月,本能寺の変を知った秀吉は,毛利氏と講和を結び戦は終結した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
用語:中国攻め(ちゅうごくぜめ)

山崎の戦(やまざきのたたかい)

1582年(天正10)6月13日,山城国乙訓郡山崎付近(現,京都府大山崎町)で豊臣秀吉ら織田信長の旧臣連合軍が明智光秀の軍勢を破った戦。備中国高松城を包囲していた秀吉は,本能寺の変を知るとただちに毛利氏と和睦し,大軍を返して摂津国富田(現,大阪府高槻市付近)で諸勢を結集。光秀は迎撃すべく勝竜寺城(現,京都府長岡京市)に入り天王山を占拠した。6月13日の夕刻から始まった合戦で光秀は大敗,近江国坂本城に逃れる途中,土民の襲撃をうけ落命した。これによって秀吉は,織田旧臣のなかで勢威を高めた。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
用語:山崎の戦(やまざきのたたかい)

明智光秀(あけちみつひで)

生没 ?~1582.6.13 織豊期の武将。十兵衛。日向守。朝倉義景に仕えていた1568年(永禄11),足利義昭の織田信長上洛依頼に参画した。上洛が実現すると,京都支配に政治力を発揮し,義昭に属しながら信長に仕えた。信長軍として各地を転戦し,71年(元亀2)近江国坂本城主となり,75年(天正3)惟任(これとう)の名字を得,信長の丹波攻略の先鋒となった。79年平定終了後,丹波一国支配を認められた。82年信長が中国赴援に向かったおりに,京都の宿所の本能寺を襲撃し,戻って近江・美濃を支配下においた(本能寺の変)。しかし豊臣秀吉の反撃をうけ,山崎の戦で敗れ,山城国小栗栖(おぐるす)(現,京都市伏見区)で自刃した。女の玉(ガラシャ)は細川忠興の室。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
用語:明智光秀(あけちみつひで)

本能寺の変(ほんのうじのへん)

1582年(天正10)6月2日,明智光秀が京都四条西洞院の本能寺に織田信長を襲い,自刃させた事件。備中国高松城を囲む豊臣秀吉の戦況報告にもとづいて,信長は毛利軍との全面対決を決意。みずからの出陣とともに,光秀にも出陣を要求した。光秀はただちに近江国坂本城に帰り,5月26日,坂本を出発して丹波国亀山城に入った。一方,信長は29日に安土をたち上洛,本能寺に宿した。6月1日夜,1万3000の軍勢を率いた光秀は亀山を出陣,老ノ坂で老臣に謀反の意向を告げ,2日明け方に本能寺を囲んだ。信長は森蘭丸らわずかな近臣とともに防戦したが自刃。妙覚寺にいた嫡子信忠も急を聞き,二条御所にこもって戦ったが,同じく自刃した。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
用語:本能寺の変(ほんのうじのへん)

柴田勝家(しばたかついえ)

生没 ?~1583.4.24 織豊期の武将。織田信長の老臣で,近江・北陸侵攻に戦功をあげ,1575年(天正3)北庄(きたのしょう)(現,福井市)城主となる。越前国支配を許され,府中三人衆の前田利家・佐々成政・不破光治が目付として入封し,金森長近も指揮下に加わった。領内では検地や農民から武器を没収するなど,一向一揆に対する諸政策を断行し,80年には加賀一向一揆を事実上平定。さらに信長の北陸侵攻の中核として越後の上杉景勝に対した。82年本能寺の変後,信長の後継者争いで,豊臣秀吉との対立を深めた。翌年賤ケ岳(しずがたけ)の戦で秀吉に敗れ,北庄城で夫人小谷(おだに)の方(信長の妹)とともに自刃。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
用語:柴田勝家(しばたかついえ)

文禄の役(ぶんろくのえき)

1592年(文禄元)4月,豊臣秀吉が明征服をめざして朝鮮に侵略した戦争(第1次朝鮮侵略)。朝鮮側では壬辰(じんしん)の倭乱とよぶ。これより先,秀吉は東アジア征服構想をたて,対馬の宗氏を通じて朝鮮に服属と明への先導を命じた。交易上,朝鮮と密接な関係にあった宗氏は,秀吉の日本統一を祝賀する通信使派遣によってその命令をすりかえたが,秀吉はこれを征明嚮導の服属使節と思いこみ,16万の兵を朝鮮に送った。これを予期しなかった朝鮮側は防戦したものの敗北を重ね,同年5月漢城(現,ソウル)が陥落,朝鮮国王は義州に難を避け,明の救援を仰いだ。日本軍は小西行長が平壌,加藤清正が咸鏡道まで侵入するなど朝鮮全域の支配をめざし,朝鮮農民から兵粮の徴発をした。しかし朝鮮各地での義兵決起,朝鮮官軍の立ち直り,李舜臣(りしゅんしん)の朝鮮水軍による日本軍の補給路遮断があり,明軍もいち早く朝鮮を救援した。ここに日本軍は武器・兵粮不足に陥り,攻守所を変えた。翌年1月7日李如松(りじょしょう)の率いる明軍は小西行長の拠る平壌を陥れ,漢城めざして南下したが,碧蹄館(へきていかん)で小早川隆景らの日本軍の反撃にあい,戦意を喪失した。このあと日明間で講和の機運がもちあがり,朝鮮側の反対をおしきって講和交渉が進められた。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
用語:文禄の役(ぶんろくのえき)

慶長の役(けいちょうのえき)

1597年(慶長2)2月~98年11月の豊臣秀吉の第2次朝鮮侵略。朝鮮側では丁酉(ていゆう)の倭乱とよぶ。秀吉は日明講和交渉で,明皇帝の皇女を日本の天皇の后にすること,日明間の勘合を復活し官船・商船を往来させること,朝鮮南4道の日本割譲など和議条件7カ条を提示したがいれられず,明皇帝からは「茲(ここ)に爾(なんじ)を封(ほう)じて日本国王と為す」との誥命(こうめい)のみで,講和交渉は破綻。秀吉は朝鮮南4道を実力で奪うため,97年朝鮮に約14万を再派兵。7月,日本軍は慶尚道巨済島で元均(げんきん)の率いる朝鮮水軍を破り,8月全羅道南原城を陥れた。これに対し明・朝鮮側も反撃の態勢を固め,12月蔚山(ウルサン)新城の包囲(蔚山の戦),翌98年10月泗川(しせん)新城の攻撃を行った。結局同年8月の秀吉の死を機に日本軍は10月から朝鮮撤退を始めたが,この侵略で朝鮮抗日組織指導者の惨殺,朝鮮民衆の鼻切りなどの残虐行為のほか,農民・陶工・朱子学者など朝鮮人捕虜の日本強制連行を行った。 (山川 日本史小辞典(改訂新版), 2016年, 山川出版社)
●出典
用語:慶長の役(けいちょうのえき)

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